Pearl Earring 邦題『真珠の耳飾りの少女』


映画にはまって、原作を読んでみた。両方とも違った良さがある。

 映画を先に観てかなりはまってしまい、二回も映画館に足を運んだ。二度観ても感動して久しぶりにペーパーバックに手を伸ばした。まず読み始めて思ったことは、すごく英語が読み易いということだ。難しい表現もほとんどなくて、ペーパーバックを読み慣れていない人でも、これなら読めるのではないだろうか。お薦めである。

 内容だが、なかなか良かった。といっても映画の持つあの極上の美しさは映画制作者の才能によるものであったようだ。本のほうは美しさに浸るという要素は残念ながらほとんどない。映画を先に観て、その絵画的映像美の素晴らしさに魅せられたということもあるが、それを本に期待してしまったところ、ちょっと肩すかしを食った感は否めない。この作者は文章で酔わせるタイプではないからだ。その代わり、ストーリーテリングの巧みさ、設定の上手さにどんどん読まされ、引き込まれていく。とにかく良く書けていることには間違いない。映画が気に入った人、絵画に興味のある人なら楽しめる一冊ではないだろうか。
 
 私が原作のほうで特に気に入った点を上げるとすれば、それは間違いなく、ラストシーンである。映画のほうは、勿論それなりに感動的ではあるが、どうも作られたような嘘っぽい感じがして腑に落ちなかった。なんというのか、それは違うでしょう、という気がしたのだ。
 ところが、本のほうは実に納得した。これこそが、本当に生きている一人の女性の選択であり、だからこそ物語はそこで停滞せずに、その後も(物語が終了しても)スムーズに流れていくだろうというのが分かるのである。
 実際、映画のラストシーンは現実的ではない。あれでどうやって彼女は生計を立てているのだろうかというのがうやむやにされているし、あの状況でそういう選択をすることは、映画としてはロマンチックだろうけれど、したたかな女性としての生きているグリートにはありえない選択だろうと思われたからだ。

 本を読んでさらに確信したのは、主人公グリートは非常に現実的な女性であったということである。自分の情熱を抑え込んでそれを大切にしまい込む。周りとの調和を乱さないために細心の注意を払う。それが同じ女性として共感を呼ぶ。女性というのは、一見ロマンチックなようでも、あくまでも周りと調和することに努める現実的な生き物なのである。
 
<以下は本の結末について書くので、これから読もうとする人は後でお読み下さい>

 私が本の中で気に入ったのは、ラストの一章なのだが、面白い点は、フェルメールという男性が実はグリートよりもロマンチックな人間であったことが死後暴露されるところだ。彼は亡くなる前に、無理を言って彼女の絵をローンで借りて来るように頼み、恐らく最後まで彼女の絵を眺めながら息を引き取ったであろうと推測される。そして遺言に真珠のイヤリングをグリートに贈るとしている。これは映画のラストシーンとも重なるところだが、映画だと時間の流れが感じられず、すぐに贈ったようになっていた。
 ところが原作では10年の時が流れる。グリートは結婚して二人の子供にも恵まれ、幸せに暮らしている。もう絵のことも、彼のこともあまり思い出さなくていい状態に到達していた。
 そんな時昔の女主人に呼び出され、彼の遺言として真珠のイヤリングを受け取ることになる。だが彼女はもらっても、夫であるピーターにどう説明していいのか困るし、肉屋の女房が持っているのはふさわしくないというもっともな理由で質屋でお金に換えてしまう。そして借金地獄に堕ちていたカテリーナ達の肉屋(ピーター)のつけを精算し、その残りを(恐らく真珠のイヤリングの代わりとして)大切に持っていようと心に決める。その精算によって、夫への借りもなくなり、メイドは自由になったとして終わる。

 ここで、明らかにされるのはグリートがあれほど慕っていたフェルメールとの思い出は、彼女にとってはすでに過去のものとなっていたのに対し、もう他界しているフェルメールにとっては、死ぬまで過去のものとはなっていなかったという事実である。これは実に意外な発見であった。
 
 一人称で語られる小説では、常にグリートの思いがつづられ、フェルメールの思いは謎のままとなっている。グリートは主人であるフェルメールが自分のことを思ってくれているのか、いつも分からないままであり、彼女は翻弄されている。フェルメールは自分のことなど何とも思っていないのかもしれない。彼にとって自分はただ絵を描くためのモデルにすぎないのだから。。読者はもうその時点で、グリートと一体となり、フェルメールという男性を手の届かない憧れの、近くて遠い存在として認識する。

 ところが物語の最後、彼の死後になって、フェルメールのグリートに対する強い思いが明らかになるが、その時にはグリートは完全に自立し、その思い出も淡いものとなっているのである。

 これが現実というものではないだろうか。私はこれを読んでグリートという毅然とした女性が本当に存在していたかのような印象を強く持った。小説の命でもあるリアリティーをこれほどまでに主人公が獲得しているというのは本当に素晴らしいことだ。作者はその点において、文字通り大成功を収めている。

 最後に付け加えるとすれば、コーネリアという登場人物のことである。
小説では陰の存在としてコーネリアがかなり重要な役割を果たしている。最後の章で、結婚して幸せに暮らしているグリートと、落ちぶれてしまいぼろをまとう填めになったコーネリアがまるで立場が逆転したかのように登場してくるのは非常に興味深い。
 忍耐強く、親切で良心的なグリートと、意地悪く貪欲で小賢しいコーネリア。作者はコーネリアとグリートという対照的なキャラクターに密かな戦いをさせてきたが、最後にはグリートに軍配を挙げさせている。
 そうした結末にほっと胸を撫で下ろすのは私だけではないだろう。
 

Posted: Sat - June 12, 2004 at 08:50 PM      


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