『サロメ』〈ワイルドの戯曲「サロメ」を交えて〉★★★★★


カルロス・サウラ監督 アイーダ・ゴメス主演

「サロメ」は舞台も観に行く予定だが、映画はどうなっているのかと軽い気持ちで行ったが、やはりというべきか凄くて圧倒されるばかりであった。

前半はメイキングフィルムのようになっていて、このまま行くのだろうかと思っていたら、途中から舞台の総稽古という設定で、「サロメ」の舞台が幕を開ける。

実際、メイキングの時点では、ダンサーのインタビューを入れたりして、ダンサーたちも普通に人間であるというのが分かるのだが、いざ舞台となるや、彼らが人間ではない何かになるその変貌ぶりに一種の目眩を覚える。

私は実を言うと、数年前からフラメンコに魅せられている人間である。この映画での舞台もそうだが、舞台装置と言えるものは、3枚のパネルにすぎず、ほとんど何もないといってもよい。それで、舞台に立てるというのは、何を意味するかといえば、彼らの肉体こそが全てを演出する舞台そのものになるということなのだ。

実際、映画でクローズアップされる彼らの表情を見ただけで、ただならない秘めた力を感じ取り、私などはぞくぞくしてしまう。彼らの表情は決して明るくはない。かといって暗いのでもない。では何かと言えば、それは踊りというものに対して自分の全てを捧げ尽くしている人間だけが持ちうる表情なのではないかと思う。それはまた真摯な眼差しであり、見る者を圧倒し心を打つものである。

アイーダの踊りを観て感動し参ってしまうのは、それが美しいからというのとは違う。また世間一般に流布されているように、官能的だからかといえば、それも違う。なんというのか、まるでこの大地の底からうねるようにして湧き出てくる力と共鳴し、それに身を任せているのを観ているようで、怖い感じすらする。この映画「サロメ」は決してフラメンコ一辺倒ではないが、その本質がフラメンコだと思うのは、まさにその点であると思う。それはまた私がフラメンコに取り憑かれた理由の一つでもあるのだ。



さて、「サロメ」と言えば、オスカーワイルドであるが、このアイーダとサウラの「サロメ」はどのような解釈であったかというのも、興味深い点だ。私が思うに、映画「サロメ」はワイルドの「サロメ」にかなり近いのではないだろうか。

世間でサロメというと、男をたぶらかす官能的な悪女のイメージが強いが、ワイルドの「サロメ」とこの映画とを観るに、そのイメージというのは後から尾ひれのように付けられたものであって、本来のワイルドサロメ像とはかけ離れたものになっているのではないかと思った。これが今回、私の最大の収穫であったといって良い。
そしてこの映画でもワイルドの戯曲でも、私にはサロメはうぶな聖女であったと思えるのだ。実際、義父ヘロデ王の前で舞う踊りは、彼をたぶらかすための踊りというよりはむしろ、ヨハネを手に入れるための命がけの必死の踊りであったのだと思う。

ワイルドの戯曲「サロメ」でもサロメはヘロデを嫌悪し続け、自分の美貌でヘロデを思うがままに操るという優越感を味わう余裕など全くない。サロメは登場したときから、今までにないほど顔色が蒼いのだ。それは勿論のこと死を予感させるが、おそらくサロメは本当に恋する気持ちから病気といっていいような状態にまで陥り、たとえどんなことをしてもヨハネを手に入れ、結ばれたいと思っていたのではないか。

現にサロメはこう語っている。「ああ、ヨカナーン、ヨカナーン、お前ひとりなのだよ、あたしが恋した男は。ほかの男など、みんなわたしには厭はしい。でもお前だけはきれいだった。...」(岩波文庫、福田恒在訳)
ところが悲劇にも、ヨハネは神に身を捧げる身であり、彼女を嫌悪さえしているのだ。映画の方では、アイーダ・サロメの圧倒的な存在感の前に影が薄いが、戯曲の方ではヨハネの存在こそが恐ろしい。映画だと、恐ろしきヨハネという感じはなく、ただの普通の男のようにも見える。実際サロメの情熱に負けそうになるシーンもあるくらいだが、やはりサロメは拒絶されてしまう。戯曲では、ソドムの娘とまで呼ばれ、呪いの言葉と共にヨハネに拒絶されるのである。

サロメがヨハネの首を取って、それに口づけをするというショッキングなシーンは、戯曲のサロメだと狂女のイメージがかなり濃厚だ。それはまるでまだ男女の恋愛というものを知らない少女が、手に入るものは全て手に入れてきた傲慢さから、まるで「ご褒美のもの」であるかのように、ヨハネの首を手にするかのごとくだ。だが、それを手にしてもなお、それがおぞましいものであるというのを悟れないほどの狂気と興奮にサロメは包まれている。それを見たヘロデ王は嫌悪してサロメを処刑させる。

それに対して、映画「サロメ」はある意味で無理心中に近いと言っていいかもしれない。私にはサロメが死を予感し覚悟していたのではないかと思えるからだ。首を取ってもなお、自分とは結ばれ得ないという悲しみが深く表現され、その意味においてサロメは浄化されている。

死ななければ自分のものにはならない男の首と最後に踊ることによって、それがとんでもない過ちであったことに気づき、自分と結ばれることはもう絶対にないのだという絶望がアイーダの打ちのめされた肢体から伝わってくるように思われる。そこには狂女を越えて、叶わぬ一つの恋に命の炎を燃やした一人の不幸な女の悲痛な姿があり、サロメはその場において聖女と化すのだった。

舞台も楽しみである。

Posted: Tue - January 20, 2004 at 12:25 AM      


©