『火の馬』


セルゲイ・パラジャーノフ  旧ソ連1966年 1/31鑑賞 

  セルゲイ・パラジャーノフ監督の『火の馬』は邦題であり、原作はウクライナの作家ミハイル・コチュビンスキーの「忘れられた祖先の影」で、ロシア映画の原題も同じものだと言う。数年前に知人に薦められた監督で、ずっと観たいと思っていた。本当は別の作品を観たかったのだが、これを見た今、別の作品がさらに観たくなっている。

 物語は青年イワンコと若い娘マリチカの悲恋を扱っているのだが、決してそれだけではない深さがある。
 二人は敵対している両家に生まれながら、幼い頃から運命的に惹かれ合い固く愛を誓い合う。イワンコは出稼ぎに出かけ、二人で存在を確認しようと一番星に誓ってマリチカにしばしの別れを告げる。ところがある夜マリチカは、まるで取り憑かれたように約束した一番星に導かれるようにして黒い羊を追い、崖から足を滑らせて川に落ち、溺死してしまう。その死を知ったイワンコのその後の生き様がこの物語の後半を占める。

 それまで生き生きとしていた若者はまるで死んだ老人のようになり、世捨て人となり果てる。月日が流れても、イワンコは物思いに沈んだまま元には戻らない。生と死の間のどうしようも埋めることのできない壁。イワンコの不幸を哀れみ、パラグナを嫁に取らせる。イワンコもパラグナも熱心に働き、経済的には潤っていく。一見上手く行っているようだが、パラグナはイワンコに愛されていないことをつくづく思い知らされる。
 
 イワンコはある日悪霊に頼み、とうとうマリチカを呼ぼうとする。すると、寝静まったころ、鈴の音と一番星が輝き、なんと窓の外にはマリチカが若く美しい姿で現れ、羨ましそうに家の中を覗いている。イワンコは突然目を覚まし、「来た。」と言う。まだ起きていたパラグナは何もいないと言って、彼女の赤い腰掛けで窓をふさぐ。イワンコをまだ愛していたパラグナは懐妊とイワンコの愛を取り戻せるようにと明け方、呪術の道具を持って外へ出かけ、全裸で祈りを捧げる。それをたまたま中年の男ユーラに見られてしまう。

 パラグナに一目惚れしたユーラは魔術を使ってパラグナを手に入れようとし、イワンコに愛されないままのパラグナはユーラの手に落ちる。居酒屋でパラグナとユーラが人目も憚らず、抱きついている。それを見たイワンコの知人が諫めようとしてユーラに殴り倒される。イワンコは酔っているのか嫌々なのか心ここにあらずという感じで斧を持ち、ユーラのところに行くが、ユーラも斧を持って出迎え、イワンコの上に振り落とす。

 傷を負ったイワンコ。外でユーラに魔術を教えてもらうパラグナ。二人は嬉しそうに抱き合っている。イワンコは森の方へとやっとのことで歩いていく。水の中を覗き込むと、その側にはマリチカの顔が見え、彼女の歌声が聞こえる。彼女の歌声に導かれるようにして、イワンコは森の奥へと入っていく。「忘れられないんだ、マリチカ。」と告白するイワンコ。それを聞いたマリチカの亡霊は両手で顔を覆い悲しみを表わしながらも、イワンコの方へと手を伸ばす。お互いの手が触れた瞬間、イワンコは叫び声を上げて絶命する。
 
 この物語をなんと呼べばよいのだろうか。生と死の間を超えようとする物語のようにも、生と死を結ぼうとしている物語のようにも見える。
 全体を通して死が自然なこととして、かつ生活の一部として散りばめられている。幼い頃兄の死に立ち会い、父が殺され母は嘆いて暮らすが、イワンコは全くものともせず元気に暮らしていた。恋人マリチカが死ぬまでは...。
 ある意味でマリチカが死んだ瞬間から、イワンコにとってこの現世は辛い堪え忍ぶばかりの場所と化し、マリチカに会えるまで、つまり死が訪れるまでは受け身で流されるままに耐えて生きなければならなかった。そしてこの作品はその姿をこそ淡々と描いている。宗教色が色濃く影を落とし、祈りの民族的な歌が耳に残る。

 是非とも別の作品を観てみたい。
 

Posted: Mon - February 2, 2004 at 12:56 AM      


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